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​人に、まちに、バリアフリー!

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福井豪雨が・・・

 2004年―夏、アテネパラリンピックが近づき、一心不乱、練習に打ち込んでいた東京合宿の真最中に、7月18日福井豪雨が起きたのです。急ぎ福井に帰ってくると…、泥だらけの街並みと、打ちひしがれた人達を目の当たりにし、パラリンピックどころではないことを悟りました。

 そんな私にコーチは、「置かれた境遇の中で、どこまでできるかが試されているんだ」と、言葉をかけてくれたのです。その言葉が、被害からの一日も早い復興を目指し、頑張っている人達の姿と重なり、私も「もっともっと頑張らなきゃ」と、勇気が湧いてきました。そして・・・、自分とライバルに打ち勝ち、夢だった金メダルの獲得に繋がったのです。

 一方、現在の社会に目を転じてみると、「置かれた境遇」によるハンディ(障害だけではない) が、勇気とチャンスを奪っている現実があります。私も競技を離れれば、一人の障がい者。「難病の進行に負けてたまるか!」と、勇気を振り絞っていますが、希望したチャンスは遠のいてしまいました。

 だからこれからの人生、ハンディがあってもチャンスに格差のない、誰もがいきいきと暮らせる社会を創らなければと、福井市役所を退職し、退路を断ち、市政に挑戦することを決断したのです。

 車いすの新たな挑戦、一生懸命がんばります。皆さま何卒、よろしくお願い申し上げます。

 

 写真は、パルテノン神殿があるアクロポリスの丘から望んだ、アテネ市街です。

講演で伝えたかったこと

2004年アテネパラリンピックを終えてからは、福井市内外の数多くの小学校から、講演依頼をいただきました。当時、お世話になりました皆様、本当にありがとうございました。

 私が、講演の中で伝えたかったことは、『自分を好きになって欲しい!』と、言うことです。今で言うと、「自己肯定感を高める!」でしょうか。

 パラリンピックに出場している選手たちは、競技の後、屈託のない¨笑顔¨でいるのは、ナゼ?と言う、疑問から始まりました。

 身体の障がいのこと(目が見えない、足が動かない…)ばかり考えていては、屈託のない¨笑顔¨は無理です。それ以上に、自分を嫌いになってしまいます。私もそうでした。

 誰しも、自分の嫌いな所はありますよね。

 そんな私が、「障がい者スポーツ」から学んだこと。それは、『約束』でした。自分との『約束』です!例えば、友達が約束を守ってくれたら、嬉しくなりますよね。自分自身との約束も、同じです。嬉しくなります。

 そこで、気を付けなければならないのは、ちょっと頑張りが必要なんだけど…、『守れる約束』にすることです。

 『守れそうにない約束』は、逆効果になります。

 なので、『守れそうな約束』を、とにかく続けるのです(本当は、これが一番つらい。)。

 すると、自分の自分に対する評価が高まり、障がいと言う、大きな課題を抱えながらも、頑張っている自分が、大好きになつていくのです。鍛え上がっていく身体も、好きに。

 アテネパラリンピックに出場した、当時の私もそうでした。自分が、大好きになっていました。だから、屈託のない、¨笑顔¨になれたのだと思います。

 子ども達も…、『約束』を守ることが、自分を好きになることに繋がり、頑張っている友達への、敬意(リスペクト)が育ってくれているのだろうと思います。

 あれから、18年が過ぎました。立派に成長し、福井市を担う若人達に、当時の講演の思い出か、少しでも残っていたら、幸いです。

 ありがとうございました。

 

 写真は、2020年12月8日、福井市清明小学校の4年生のみんなに、「バリアフリーとスポーツ」と題して、講演させていただいた様子です。

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チャンスの格差

 私は、ハンディがあってもチャンスに格差のない、誰もがいきいきと暮らせる社会をつくりたいと思っています。なぜなら障害の進行に伴い、私自身チャンスを失ってしまったからです。私は、シャルコー・マリー・トゥース病に罹患し、車いす生活(四肢障害)をしています。視覚にも障害があり、弱視のため高倍率の天眼鏡は欠かせません。

 それは3年前のことでした。自分の仕事のペースが落ちてきたのです。それでも、自分自身を奮い立たせながら頑張ってきました。しかし、周囲の理解に恵まれず、私は孤立していきました。これからも続く公務員生活の中で、自分の居場所を考えた時、苦渋の判断ではありましたが、降格を選ばざるを得ませんでした。障害がチャンスの障壁になってしまったのです。

 しかし、本当に自らの障害だけが障壁だったのか?と考える余裕ができた時、「障害の社会モデル」という言葉を知りました。障壁は、多様性を考慮しない社会の側にあるというのです。例えば、階段にスロープが無ければ、私(車いす)だけでなく、ベビーカーを押している人などの行動が難しくなります。

 すなわち、多様な人々の行動を保障できない社会が障壁になり、ひいては、車いす使用者等に対してチャンスの格差を生んでいたのです。今では、この「障害の社会モデル」に立った判断が、3年前にあればと悔やんでいます。

 一方、先人たちの弛まぬ努力で、チャンスの格差は少なくなってきています。私が出場したパラリンピックもそうです。陸上競技の選手として世界で活躍できるチャンスを、車いすランナーにも整えてくれたのです。

 しかし、「障害者差別解消法」が施行されているのを見ても解るように、十分ではありません。今度は私が、未来を生きる子どもたちのために、もっともっとチャンスに格差のない、いきいきと暮らせる社会を創らなければと決意し、生活に身近な市政に、支援の必要な私たちの想いを直接政治に届けたいと決断しました。

 まずは、市立中学校のバリアフリー化を促進させていきたいと思っています。私と同じ病気の娘が、障害の進行のため、地元の市立中学校に進学するチャンスを失ってしまったからです。その結果、幼馴染との交流はなくなり、寂しく辛い思いを強いることになりました。

 幼馴染と共に、地元の中学校でいきいきと学べる学び舎は、きっといきいきと暮らせる社会の基礎となるはずだからと、私は信じています。 

みんなのもの

2004年アテネパラリンピックで獲得した金メダルの一つは、「福井県障がい者スポーツ指導者協議会」にあります。

ギリシアから帰国して間もなく、福井県障がい者スポーツ指導者協議会の皆様に「祝勝会」を開いていただき、その時に、金メダルの一つ(車いすマラソン:42.195km)を寄贈(プレゼント)させていただきました(2004年秋)。それは、獲得した金メダルが、私だけのものではないと思ったからです。

 福井豪雨からの復興に向けた皆様方の姿に勇気をいただき、多くの方々に支えられ、励まされたおかげで、獲得することが出来たのです。

 だから、その最も身近な仲間たち、福井県障がい者スポーツ指導者の皆様に受け取ってほしいと思ったのです。

(現在、福井県障がい者スポーツ指導者協議会は、「しあわせ福井スポーツ協会」内にあります。)

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こころの揺らぎ

 2012ロンドンパラリンピックを目指すころから、私は変わっていきました。それは、私の福井市役所障がい福祉課での仕事にも関係しています。日々、多くの障がい者の方や、その家族の方が、障がい福祉の窓口に来られ、ご苦労されている日常生活のお話を聴くと、私は恵まれていることに、何度も何度も気付かされました。その中で、メディアに取り上げられ注目を浴びるのです。今まで公務員として染みついた、公平・・・。

 確かに、パラリンピックを目指すためには、弛まぬモチベーションとトレーニングが必要ですが、そんな辛さに比べたら、皆様方の日常生活のご苦労の方が、はるかに大変であることは肌で感じています。私以上に、そういった方が、ナゼ公平に注目されないのか?。次第に、パラリンピックに向けて、以前のような、何が何でも!という気迫が薄らいできました。

 多分、こんな感情は、他の選手も抱いているのでしょうが、私を今まで支え育ててくれた皆様方への感謝の気持ちが、私は人一倍強いのだと思います。だから、今度は皆様方に少しでも、ご恩返しが出来ればと思っています。

 

 写真は、2012ロンドンパラリンピックに向けて、糸生中学校の時の同級生のみんなに、「激励会」を開いてもらい、その時、ゲストで来ていただいた、福井商業高校・書道部の生徒さんに書いていただいた約4m四方の作品です。なお、福井商業高校の生徒さん(チアリーダー部JETS)には、2004アテネ、2008北京大会に向けた「激励会」の時にも、お世話になりました。

 ありがとうございました。

パラリンピックの
ユニホーム

パラリンピックに出場が決定すると、多くのユニホームが支給されます。開会・閉会式用、表彰式用、普段着用(半袖・長袖)、防寒用、競技用・・・と。更に、普段着用などは洗い替えのために、何着か支給されます。パラリンピックごとにデザインも異なり、このデザインは、あの大会の時の・・・、記憶が蘇ります。その日の丸(JAPAN)の入った、日本代表公式ユニホーム。以前、地元でのイベントがあった時、2004アテネパラリンピックから3大会分、バザーに出店させてもらい、そのほとんどを地域の方々に、安く買ってもらいました。その売り上げは、全額を、社会福祉協議会に寄付させていただきました。未開封のもの、ちょっと手を通したものなど、状態の良いものを選び・・・、私のできる、地域の皆様への感謝の気持ちを込めて「どうぞ、お買い求めください!」と、売り子をさせていただきました。

 もうないかと、家中を探して出てきたユニホームの最後を、2020東京パラリンピックに出場のため、スロベニアから、事前視察に来られた水泳の選手、事前合宿に来られた陸上の選手たちに、心を込めてプレゼントさせていただきました。おもてなしさせていただきました。

 

#写真は、2008年地元の有志達が私のために作ってくれた、Tシャツのデザインです。

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参加させて!

 私は、私たち”車いす使用者”は、かつて「市民マラソン大会に参加させてください!️」と、主催者側にお願いしたことがあります。

 市民を対象とし、分け隔てることのない、生涯スポーツだと思っていたのですが、車いす使用の市民は別でした。同じマラソン競技を楽しむ市民として、見てくれなかったのです。

 「車いす使用者は、参加することが出来ません。」

 どんなにお願いしてもダメでした。

 現行の市民マラソン大会に与える影響を、極力抑える私案を提示しても、頑なな姿勢は変わりませんでした。

 私が、2004年「アテネパラリンピック」車いすマラソンで、金メダルを獲得しても、2008年「北京パラリンピック」車いすマラソンで、銅メダルを獲得しても、変わりませんでした。

 2018年には、「しあわせ福井元気国体‐大会」が、『融合』をテーマに開催され、国体開催期間中に、車いすバスケットボール他が実施されました。この勢いを借りて、お願いしても、実現されませんでした。

 もう、どうしたら受け入れてくれるのか分からなくなり…、諦めてしまいました。

 一緒にマラソンを楽しみたい!、それだけなのに、障がい者の社会参加に対し、こんなにも、ぶ厚い壁があるのです。

 2024年には、「ふくい桜マラソン」が開催されます。多様なマラソン競技を楽しむ市民の中に、”車いす使用者”が含まれることを期待します。

(写真:日刊県民福井提供)   

八代英太氏を想う

 私が、初めて政治家を意識したのは、小学6年生の時でした。

 母からの言葉、「同じ障がい者として…、支持するんだよ」。当時、参議院議員選挙に立候補した、八代英太さん(車いすの政治家)を指しての言葉でした。

 母は…、障がい者が生活しやすい社会を築くのは、障がい者自身の、参加・参画が、何より重要だと考えたのだと思います。

 母(健常者)から見れば、我が子(障がい者)が、社会の中に受け入れてもらえない…、これ以上の苦悩は、なかったのでしょう。

  母の…、私の友人(健常者)に対する言葉、「仲良くしてやってね。」に、尽きると思います。

 

 写真は、私が小学6年生の、修学旅行の時のものです。両足装具で、松葉杖をついていました。友達の歩くスピードに付いて行くだけで、汗びっしょりでした。

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障害者の・・・、障がい者の夢

 歯に衣着せぬ、母からの愛情を込めた、言葉があります。

  「障害者が夢を見たって、あかんのや!」

 昭和の時代、私が学生時代のころに、よく聞かされた言葉です。身体に障害があり、社会に役立ちそうにない者は、健常者と同じような夢を語ってはいけないという・・・、世間の厳しさを教えてくれた、大切な言葉です。そんな母も80歳を過ぎ、足腰が衰え、杖を突くようになりました。母も、障がい者になったのです。

 かつて、私に言ってくれた言葉、「障害者が夢を見たって、あかんのや!」「出来もせん者が、偉そうに!」。出来なくても・・・、出来なくなっても、それからでも、母には、夢を見ていて欲しいと思います。

 辛らつな言葉の裏には、たっぷりの愛情が込められていることを・・・、私は知っています。だから、素直に聴けるのです。

 今、私は夢を追っています。その夢が、母の・・・、そして、娘の夢に、繋がればと願っています。

 

#写真は、56年前の「だるま屋」屋上での、母と私です。

おばあちゃん子

 「もっと我、出せま!負けんしょで、しよま!」。私が、小学生の頃、おばあちゃんによく言われた言葉です。

 5歳くらいから歩き方が、ぎこちなくなり、かけっこをしても、友達に離される一方。だんだん、友達と競い合おうという気持ちが、薄らいでいきました。

 歩き方がぎこちないことで、からかわれたり、イジメられたりしたことも。弱虫の私は、おばあちゃんにすがることで、慰めていました。そんな私に、言うのです。

 でも、立ち向かっても勝てそうにないし、負けて悔しい思いもしたくないし、おばあちゃんの言葉を、聞き流していました。

 そんな、おばあちゃんが亡くなって20年以上たちます。

 おばあちゃんの言葉は、今の私に、負けていられない!、という気持ちを湧き立たせてくれます。ゆっくりと進行する病気に、いつかは根を上げる時期が来るのでしょうが、今はまだ、負けていられない。

 だって、まだまだ大変な人たちがいる中で、私には、出来ることがある。悔いを残さないためにも、まだ。

 私の中に、おばあちゃんは生きています。

 

 写真は、私が1歳くらいの時のものです。農家の後継ぎとして期待され、生まれてきましたが、応えられませんでした。

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我が家に来た、保護猫


 私は、選ぶことが出来ませんでした。

 飼っていた老犬(ハル)が天国に逝ってしまい、残された猫(チロル)が寂しがるかなと想い、「福井県動物愛護センター」に、保護猫の里親にと向かいました。そこで、職員の方が最初に連れてきたのが、我が家に来てくれたアズキ(写真)です。私は、最初から決めていました。それは、命を選ぶことはしないことです(職員さんが、最初に連れてきた仔猫で決まり。)。

 もし、私(障がい者)が、逆に選らばれる立場だったら、選んでくれることはないと想ったからです。だから、私は、命を選ぶことは出来ませんでした。

 我が家に来てくれて、ありがとう。

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